インフィニティ
最近ある日、母親に「これ覚えてる?」と見た写真は昔々の朧気ながらある記憶、熊と犬のヌイグルミでした。
薄気味悪かったのですが、お焚き上げ済みとのこと。
ちょうどピアノで似たことを考えていたので、猶更不思議でした。
内も外も無いような空間は無限で、時間もありません。
隣がピアノを買ったから、うちも買うなら品質が良く、値段もよければ満足出来ます。
しかし、おすすめではありませんが、思い入れのあるピアノというのもあり、どうしても他に変えることは出来ないということがあります。
ピアノに心があるかのように、人は思う。
そんなピアノは時空をこえて、無限の彼方ではなく、此にあり続ける。
不動のピアノは、吾、唯、足るを知る。
それ以上もそれ以下もない、比較がなければ嫉妬もない。
昔も今もない、一台のピアノ。
ピアノの寿命は無限とは言えないまでも、100年は超えるのかもしれません。
参考図書 『探究Ⅱ』講談社学術文庫
ゼロ
ゼロは何度掛けても足してもゼロ、つまり無から有は生まれない。
といってもゼロは認識され観念される意味で存在する。
和音はピタゴラス以前からあっても比例関係にあることを明らかにし、そして更に数そのものが真の実在であるかのようにピタゴラスは考えたらしい。
和音を聴いて感覚的によいと感じるものを数学的に説明できたとして、身体感覚を越えたもう一つの真実世界が存在するかのようになるのは疑問で、身体感覚は有限でも、観念は時間を越えて無限に羽ばたくかのような錯覚に陥る。
空間が時間より先にあるというのなら、ゼロから有が生まれたことになる。
はじめに何もない無のカオスから有をつくったとの話自体、ある種の洗脳で、本来あるのは動的な有。
常に現在だけがあるところ、静的に観念的に、過去‐現在‐未来と切り取った。
動的有を鏡のように写しだした時間とともに自分を意識しはじめた失楽園から抜け出すのは、どこまで自意識を捨てられるかが鍵。
自意識の迷宮は、どこまでも付きまとってくる時間のようでもあります。
動的有に、それを静的に見つめる認識や観念が寄生したのかもしれません。
参考図書:『哲学の起源』岩波書店、第四章
アルファとオメガ
変化があるから時間があり、変化が止まる聖なる日常では時間は止まる。
時間が流れるのは日常で、時間がないのは初まりも終わりもない世界。
視覚も聴覚も対象と関連付ける意識の外化で、時間の中にある。
楽器も音楽も時間がないと成立しませんが、前後の脈絡ない夢や物語のない祈りの世界なら時空を超えるかもしれません。
時空といえば、人の意識が先にあるなら空間より時間が先にある。
「初めに~を創造された」や「初めに~があった」というように、初めにという時間から初まる。
未来予知が出来たとしても時間の中の話で、逆に言えば現在と未来があるから時間があり空間がある。
現在だけなら時間も空間もないので、つまり時間は二項対立を必要とする。
ピアノ調律においてなら連成振動で、接近した弦振動で周波数か近ずいてくると引っ張り合って一つになろうとする現象があります。
まず最初に、二項対立があるわけです。
現実があるから夢がある。
パラレルワールドがあると考えられるようですが、存在している時点にifはない。
しかし、時空を超えた外在する異世界の観測者は時間がみえて、計算や実験を繰り返し、成功するルートを探しているのかもしれません。
また、人はそれを意識出来るということ。
二項対立が一つになることが救いで、失われたものの回帰とか完全合一などと楽観的に考えてしまうと更に救われなくなるように思います。