トラベル
桓武天皇が平城京より長岡京を経て平安京に都を移されて1200年余り。
「左近の桜」「右近の橘」が配された紫宸殿を中心とした京都御所から、今回の参観はスタートしました。
格式高く静寂な佇まい、厳かな雰囲気。
その後、すぐ西側にある虎屋一条店でひと休み、雅な趣きで餡蜜をいただきました。
濃縮した餡に栗のような黒豆、角が立った雑味のない寒天に水の美味しさを感じます。
そこから歩いて、大政奉還の舞台となった二条城へ。
広大で開放的な城郭は石垣や庭石、御殿や庭園など風流で見事に調和していました。
三条にある宿に泊ったのですが、鴨川沿いの石畳が続く四条の先斗町で夜、おばんざいをいただきました。
東京よりリーズナブル、しかも風情があります。
そして、鴨川を眺めながらのビールは格別でした。
明くる朝、宿近くの珈琲はスタバでも京風。
貴船に行く途中、出町ふたばの豆餅はかなり控えめな甘さで絶妙な塩味、餅々の弾力が素晴らしかったです。
牛若丸と天狗にゆかり深い鞍馬山から歩いたのですが、ケーブルに乗っても、普段登山などしない私には結構キツかったです。
上に登るほどシーンとするだけ虫の音は賑やかで、浄まる空気を満喫するというよりは苦行。
下りで、川のせせらぎが聞こえだしたときには、ほっと安堵しました。
大変だった分、川床の透明な流れにつつまれての食事は、とても気持ちよいものでした。
京都で最も古い歴史を持つ上賀茂神社(社殿の礎が築かれたのは天武天皇の時代)にも参拝。
鄙びた場所のためか人は少なめで清々しく、運よく晴れた青空に朱色が映えていました。
鴨川の上流から都を守ってくださるようで、個人的なお願いごとをするよりも、ありがたさに満ちています。
最後は、また四条に戻って京都最古の禅寺、建仁寺(1202年開創)。
俵屋宗達の「風神雷神図屏風」と小泉淳作の天井画「双龍図」を拝観。
渋く独創的な色合い、奇抜でダイナミックな天界のダンス。
続く艶やかな花見小路を通って、鍵善良房で最高の吉野葛、涼やかな葛切りをいただきました。
餡蜜よりも、私こちらのほうが好みです。
行く度に、更に楽しくなる京都旅行でした。
インフィニティ
最近ある日、母親に「これ覚えてる?」と見た写真は昔々の朧気ながらある記憶、熊と犬のヌイグルミでした。
薄気味悪かったのですが、お焚き上げ済みとのこと。
ちょうどピアノで似たことを考えていたので、猶更不思議でした。
内も外も無いような空間は無限で、時間もありません。
隣がピアノを買ったから、うちも買うなら品質が良く、値段もよければ満足出来ます。
しかし、おすすめではありませんが、思い入れのあるピアノというのもあり、どうしても他に変えることは出来ないということがあります。
ピアノに心があるかのように、人は思う。
そんなピアノは時空をこえて、無限の彼方ではなく、此にあり続ける。
不動のピアノは、吾、唯、足るを知る。
それ以上もそれ以下もない、比較がなければ嫉妬もない。
昔も今もない、一台のピアノ。
ピアノの寿命は無限とは言えないまでも、100年は超えるのかもしれません。
参考図書 『探究Ⅱ』講談社学術文庫
ゼロ
ゼロは何度掛けても足してもゼロ、つまり無から有は生まれない。
といってもゼロは認識され観念される意味で存在する。
和音はピタゴラス以前からあっても比例関係にあることを明らかにし、そして更に数そのものが真の実在であるかのようにピタゴラスは考えたらしい。
和音を聴いて感覚的によいと感じるものを数学的に説明できたとして、身体感覚を越えたもう一つの真実世界が存在するかのようになるのは疑問で、身体感覚は有限でも、観念は時間を越えて無限に羽ばたくかのような錯覚に陥る。
空間が時間より先にあるというのなら、ゼロから有が生まれたことになる。
はじめに何もない無のカオスから有をつくったとの話自体、ある種の洗脳で、本来あるのは動的な有。
常に現在だけがあるところ、静的に観念的に、過去‐現在‐未来と切り取った。
動的有を鏡のように写しだした時間とともに自分を意識しはじめた失楽園から抜け出すのは、どこまで自意識を捨てられるかが鍵。
自意識の迷宮は、どこまでも付きまとってくる時間のようでもあります。
動的有に、それを静的に見つめる認識や観念が寄生したのかもしれません。
参考図書:『哲学の起源』岩波書店、第四章