歌
2014年、今年は何だか大層な終末とやらが予想されているようでしたが、私は17,8年ぶりに同業合唱に参加できました。
ここは調律師中心で、発声云々以上に精緻な音程を目指しているのですが、私自身は趣味で声楽習い始めたのと調律学校入学が不思議と同時期だったこともあり、発声良ければ音程も良し!おそらく・・・、のように思っていました。それは若干そうともいえないのを理解するのに時間かかりましたが。
合唱も声楽も辞めてた期間は、下手なピアノを自己流で弾いていました。
合唱を再開すると、やはり何だか物足りなくて声楽も以前のところに復帰しました。
演奏レベルはともかく声楽という、人ではない最愛の彼女とまた出会えたよう。
15年以上ぶりの発表会にも参加して、アマチュア愛好家でも、舞台メイクして貰って蝶タイとカマーバンド着けて歌うのは久々の緊張感と充実感。
そうそう昔と変わらないつもりでも、長期間のブランクは大きいと感じました。
50半ばだと本当に発声正確なところでないと歌えなくなったし、逆にいえば発声の本当に正しいところが体感できるかと。
予言される社会的終末の時期は私的世界のリターン、私の演奏レベルはさておき、主に音楽に引き上げられてくように感じています。
heaven
皮膚感覚が新鮮だったときのいつまでも忘れられない感動は、年をかさねるごとに素晴らしく思える執着にいき着いてしまいがちで、今が生きにくいのを起点に懐かしむ。
解放がどこかにあるのなら、過去現在未来へと読く先の希望らしきものを頭を使ってはからうよりは、予期せぬ変化の束の間を見逃さないようにしたい。
農耕か文字の使用が時間の発生と関係するのか、それが現在意識が希薄になり自意識が肥大して過去と未来に押しつぶされるのならば、自意識からの解放が鍵なのか、頭で考えないのが救いなのか。
天国への鍵、
それらしきやりかたを示したもののように、見えない妄想は逞しい。
ピタゴラス以前にもハーモニーはあったらしいですが、人間以外の動物や自然の声が、いわゆるハーモニーに聴こえるわけでもない、
それは祝福なのか呪いなのか。
トラベル
桓武天皇が平城京より長岡京を経て平安京に都を移されて1200年余り。
「左近の桜」「右近の橘」が配された紫宸殿を中心とした京都御所から、今回の参観はスタートしました。
格式高く静寂な佇まい、厳かな雰囲気。
その後、すぐ西側にある虎屋一条店でひと休み、雅な趣きで餡蜜をいただきました。
濃縮した餡に栗のような黒豆、角が立った雑味のない寒天に水の美味しさを感じます。
そこから歩いて、大政奉還の舞台となった二条城へ。
広大で開放的な城郭は石垣や庭石、御殿や庭園など風流で見事に調和していました。
三条にある宿に泊ったのですが、鴨川沿いの石畳が続く四条の先斗町で夜、おばんざいをいただきました。
東京よりリーズナブル、しかも風情があります。
そして、鴨川を眺めながらのビールは格別でした。
明くる朝、宿近くの珈琲はスタバでも京風。
貴船に行く途中、出町ふたばの豆餅はかなり控えめな甘さで絶妙な塩味、餅々の弾力が素晴らしかったです。
牛若丸と天狗にゆかり深い鞍馬山から歩いたのですが、ケーブルに乗っても、普段登山などしない私には結構キツかったです。
上に登るほどシーンとするだけ虫の音は賑やかで、浄まる空気を満喫するというよりは苦行。
下りで、川のせせらぎが聞こえだしたときには、ほっと安堵しました。
大変だった分、川床の透明な流れにつつまれての食事は、とても気持ちよいものでした。
京都で最も古い歴史を持つ上賀茂神社(社殿の礎が築かれたのは天武天皇の時代)にも参拝。
鄙びた場所のためか人は少なめで清々しく、運よく晴れた青空に朱色が映えていました。
鴨川の上流から都を守ってくださるようで、個人的なお願いごとをするよりも、ありがたさに満ちています。
最後は、また四条に戻って京都最古の禅寺、建仁寺(1202年開創)。
俵屋宗達の「風神雷神図屏風」と小泉淳作の天井画「双龍図」を拝観。
渋く独創的な色合い、奇抜でダイナミックな天界のダンス。
続く艶やかな花見小路を通って、鍵善良房で最高の吉野葛、涼やかな葛切りをいただきました。
餡蜜よりも、私こちらのほうが好みです。
行く度に、更に楽しくなる京都旅行でした。