ドン・カルロス(1545~1568年)巡り
10年以上も前の発表会で演技付きで歌ったりもした『ドン・カルロ』、もちろん抜粋シーンだけですが。
大好きなオペラなので、興味本位で歴史をまとめてみました。
アンリ・マティス生地の町、カトー=カンブレジは1559年の条約が有名で、フェリペ2世(1527~1598年)がエリザベート・ド・ヴァロワ(1545~1568年)と3回目の結婚をしたおかげで実現した、ヴァロワ家(フランス)とハプスブルク家(オーストリア・スペイン)が結んだ講和条約。
1559年はフェリペ2世の父である、神聖ローマ皇帝でスペイン国王だったカール5世またはカルロス1世が亡くなった翌年です。
フランス王アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの第2子(長女)でフォンテーヌブロー城で生まれたエリザベートが最初に婚約したのは、ヘンリー8世の長男で第3子のイングランド王(在位1547~1553年)エドワード6世。
ヘンリー8世の長女で第1子はイングランド女王(在位1553~1558年)メアリー1世でフェリペ2世の2回目の奥さん。
腹違いの次女で第2子はイングランド女王(在位1558~1603年)エリザベス1世。
神聖ローマ皇帝カール5世(1500~1558年)の長男で第1子のフェリペ2世は4回結婚していて、最初の奥さんはポルトガル王ジョアン3世(1502~1557年)とカタリナ・デ・アウストリア(1507~1578年、神聖ローマ皇帝カール5世の妹)の長女でコインブラ生まれのマリア・マヌエラ・デ・ポルトゥガル(1527~1545年)。この人がドン・カルロスの実母です。
ジョアン3世はイエズス会を庇護して植民地へ宣教師を派遣、キリスト教伝道に努めた。
日本への鉄砲伝来、1549年のフランシスコ・ザビエルの日本上陸の時期。
マリア・マヌエラはドン・カルロスの生年に死去。
フェリペ2世の2回目の奥さん、11歳年上のメアリー1世(1516~1558年)とは性格が合わなかったらしい。
子はいなくて1558年に死去。
1559年に結婚した3回目の奥さんがエリザベートで2女をもうけた。
イザベル・クララ・エウへニア(スペイン領ネーデルラント総督)とカタリーナ・ミカエラ(サヴォイア公カルロ・エマヌエーレ1世の妃)。
エリザベートの父アンリ2世は1559年、パリのノートルダム大聖堂で行われた娘の結婚式の祝宴での馬上槍試合が原因で亡くなり、ノストラダムス予言的中とも言われた。
その後、フランスはカトリックとプロテスタントの抗争でユグノー戦争になる。
エリザベートは1598年10月、死産した直後に急死。
エリザベート14歳のときの婚約者がドン・カルロス。
そのドン・カルロス・デ・アウストリアは1568年7月に死亡。
死亡時期が近いこともあり、フェリペ2世がふたりを毒殺した説にもなったが真偽は不明。
4回目の結婚は1568年、アナ・デ・アウストリア(1549~1580年)と。
4人の息子と1女をもうけたが、3男で4子のフェリペ3世以外は夭折。
話は変わって、フィリピン諸島などの「フィリピン」は、1542年にFelipinasと探検家に命名され、フェリペに由来するらしい。
1584年には、日本からきた天正遣欧少年使節を歓待し、フェリペ2世は愛想よく快活にふるまったらしい。
世界の富を二分するともいわれるハプスブルク家と英国王室ですが、日本の皇室とも縁が深いようです。
王侯貴族のゴシップは今も昔も人気でオペラの題材にもなっていて、深読みしていくと当時の様子が見えてくるようです。
参考図書:新潮オペラCDブック ヴェルディ[ドン・カルロ]