ゼロ
ゼロは何度掛けても足してもゼロ、つまり無から有は生まれない。
といってもゼロは認識され観念される意味で存在する。
和音はピタゴラス以前からあっても比例関係にあることを明らかにし、そして更に数そのものが真の実在であるかのようにピタゴラスは考えたらしい。
和音を聴いて感覚的によいと感じるものを数学的に説明できたとして、身体感覚を越えたもう一つの真実世界が存在するかのようになるのは疑問で、身体感覚は有限でも、観念は時間を越えて無限に羽ばたくかのような錯覚に陥る。
空間が時間より先にあるというのなら、ゼロから有が生まれたことになる。
はじめに何もない無のカオスから有をつくったとの話自体、ある種の洗脳で、本来あるのは動的な有。
常に現在だけがあるところ、静的に観念的に、過去‐現在‐未来と切り取った。
動的有を鏡のように写しだした時間とともに自分を意識しはじめた失楽園から抜け出すのは、どこまで自意識を捨てられるかが鍵。
自意識の迷宮は、どこまでも付きまとってくる時間のようでもあります。
動的有に、それを静的に見つめる認識や観念が寄生したのかもしれません。
参考図書:『哲学の起源』岩波書店、第四章